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大阪地方裁判所 昭和45年(わ)1282号 判決 1972年10月06日

主文

被告人は無罪。

理由

一、本件公訴事実の要旨は、

被告人は、昭和四三年八月八日午前零時一八分ころ、普通乗用自動車を運転して、大阪市西区靱本町二丁目四八番地先道路上を、時速約三〇キロメートルないし四〇キロメートルで南進したのち、交通整理の行なわれている同所交差点を直進しようとしたのであるが、このような場合、自動車運転者としては、交差点進入時に対面信号を確認し、信号の表示に従つて進行すべき業務上の注意義務があるのに、交差点約八〇メートル手前で同交差点の青信号を確認したのみで、自車が同交差点進入時に、黄色信号を表示していたのを看過し、前記速度のまま同交差点に進入した過失により、右方道路から東行き赤信号で進入して来た森田知康運転の普通乗用自動車に自車右前部を衝突させて、自車同乗者高橋敏(当時四〇才)に脳挫傷等の傷害を負わせたうえ、同日午前一〇時四五分ころ、同区南堀江大通一丁目一番地大野病院において、心衰弱により死亡するに至らしめ、右森田の車両同乗者高井照雄(当時一八才)に脳挫滅の傷害を負わせたうえ、同日午前零時四五分ころ、同市東区常盤町一の三六長原病院において右傷害に基づき死亡するに至らせ、自車乗客森行輝子(当時四三才)に加療約一年八ケ月以上(今後治療見込日数不詳)の頭部外傷型等の、森田の車両同乗者木村正雄(当時四一才)に全治まで一三五日間の右鎖骨骨折等の、同有里幸哉(当時一九才)に全治まで三四日間の頭部打撲等の、同汐見龍二(当時二七才)に全治まで八三日間の頭部打撲傷等の、同小谷学(当時二四才)に全治まで約一年一ケ月間の頭蓋骨亀裂骨折等の、前記森田に全治まで八九日間の頭部挫傷等の各傷害をそれぞれ負わせたものである。

というのである。

右公訴事実中、被告人が、右日時場所において、自動車を運転し、本件交差点に進入した際、右方道路から同交差点に進入して来た森田知康運転車両と衝突し、その結果、右のとおり、二名が死亡し六名が負傷したという事実は、本件証拠上明らかなところである。

しかしながら、当裁判所は、検察官が右公訴事実において主張する被告人の過失、すなわち、本件交差点に進入する際対面信号を確認し、その表示に従つて進行すべきところ、これを黄信号で進入したという点については、本件証拠上確信をもつに至らない。以下その理由を述べる。

二、本件証拠上、被告人車が本件交差点に対面黄信号で進入したとする検察官の主張に沿う証拠としては、相手車運転者森田知康の証言および被告人の司法警察員に対する昭和四三年一二月二一日付供述調書が存在するだけである。

すなわち、被告人車の乗客二名のうち、一名が死亡し一名が負傷したことは、前記公訴事実のとおりであり、この負傷した乗客森行輝子は、本件交差点に気付かず、従つて当時の信号については全くわからないという(同人の検察官および司法警察員に対する各供述調書)。また、森田車には、森田が勤務する近畿リコー株式会社の社員五名が会社から帰宅すべく同乗していたが、そのうち一名が死亡し四名が負傷したことは、前記公訴事実のとおりであるところ、この負傷した木村正雄ほか三名は、いずれも信号を見ていなかつたか、その記憶がないなどの理由で、明確な供述をしえない(同人らの検察官に対する各供述調書)。本件交差点の北西角にある大鰹株式会社の三階にいた大西友次は、本件事故の衝突音を聞き、すぐ窓から現場を見たというが、そのときの信号については記憶がない旨証言する(第五回公判調書中証人大西友次の供述記載)。ただ、鈴木信の検察官に対する供述調書(謄本)によると、パトカー乗務の警察官である同人は、本件事故直後の同日午前零時二三分ころ、現場に急行し負傷者の救護に当つたが、そのとき現場において、作業服を着た二、三人の若い二二、三才くらいの人が、森田車を指さして、「あれが悪いんや」。といつたのを聞いた旨の記載があるが「悪い」といつたその理由がわからないという。一方、被告人の前記供述調書を除く余の供述調書ならびに当公判廷における供述は、いずれも本件交差点には対面青信号で進入したとするものである。

三、そこでまず、森田知康の証言について検討する。

(一)  まず、本件交差点の道路交差状況、道路幅員、横断歩道の位置幅員等本件交差点の状況は、別紙図面に記載したとおりであり、かつ、被告人車と森田車との衝突場所が右図面中の×地点であることは、森一男の検察官に対する供述調書(謄本)および司法警察員作成の実況見分調書(三通)により認められる。そして、本件交差点の各信号機が、事故当時も正常に作動していたことは、森田知康に対する業務上過失致死傷被告事件(昭和四五年(わ)第一二八三号)の公判調書中証人成相久夫の供述記載および同人の検察官に対する昭和四五年一月二九日付供述調書により推認しうるところであり、本件事故当時の南行信号機と東行信号機の表示上の時間的関連を表にすると、別紙信号周期表のようになる。

(二)  森田知康の第五回ないし第七回公判における各証言(ただし、第五回は公判調書中の供述記載)および司法警察員作成の昭和四三年一一月二八日付実況見分調書中同人の指示説明部分によると、同人は、右実況見分時および捜査段階における取調の当初には、本件交差点の手前約五〇メートルの地点において、対面東行信号が青に変つた旨供述していたが、後にこれを変更して、交差点西詰の横断歩道上かその手前位で赤から青に変つたのを見たと供述するに至り、当公判廷においてもこれを維持している。

右ように、供述を変更した理由として、同人は、相手車ばかりに罪を押しつけて、自分だけいい子になることは良心が許せないというのであるが、そのことは素直に受入れるとしても、変更後の供述自体には、次のような問題がある。

(三)  森田自身は、本件事故により、頭部挫傷血腫および挫創脳内出血、頸椎捻挫等の傷害を受け、本件事故当日より同年一〇月二二日まで入院し、以後同年一一月四日まで通院加療を受けて治療したことは、医師藤尾和久作成の森田に対する診断書および診断状況回答書(いずれも謄本)に明らかなところであるが、同人の前記供述の内容をみても、同人の事故直前までの記憶に障害があつたとは認められない。この点は、同人自身、第六回公判において認めているところである。

それにもかかわらず、森田は、本件交差点の対面信号が赤から青に変つた事実を明確に記憶しているとしながら、その前の赤の状態は記憶にないとする。右赤の表示時間は、成相久夫の検察官に対する昭和四五年一月二九日付供述調書によると、本件事故当時四一秒間もあるのであつて、森田車の走行速度は、同人の証言によると、時速約五〇キロメートルないし六〇キロメートルというのであるから、同人のいうように、本件交差点西詰横断歩道辺りで右信号が赤から青に変つたというのであれば、その地点から約五七〇メートルないし六八〇メートルの西方から、本件交差点に向け進行する間、ずつと赤信号状態であつたことになる。しかも、同人は、右走行中に自車の速度を減速した憶えがないというのであるから、対面赤信号を表示する交差点に向つて、時速五、六〇キロメートルで走行するというのは、正常な走行とはいえない。かかる走行を敢えてなした理由について、森田の供述はすこぶる瞹昧であり、この点の記憶がないとしながら、ただ、対面信号が赤から青に変つたという一瞬の事象だけは明確に記憶している、しかも、時速五、六〇キロメートルの走行中でありながら、その変つたのを認めた地点が横断歩道上かその手前位であるとする供述を果してそのまま信用してよいであろうか。

仮に、右の点について、森田の供述するように、日頃通行している場所であるから、運転者としての六感により、信号の変化を見た地点を特定しうるものであり、また、信号の変化というのは強く印象づけられるものであるから、これだけは記憶に残つているというように考えるとしても次の疑問は本件証拠上容易に解明できない。

(四)  すなわち、別紙図面によると、本件衝突地点から本件交差点西詰横断歩道の西側線までは約27.2メートル、同北詰横断歩道の北側線までは約一七メートルであり、一方森田車の走行速度は、森田の供述では前述のとおり時速五、六〇キロメートルであり、被告人車の走行速度は、後記のとおり、時速四、五〇キロメートルと認められるところから、本件交差点(本件交差点の範囲については後述する)には、森田車が被告人車より一瞬早く、または、両車両がほぼ同時位に進入したものと考えられる。

してみると、森田が本件交差点西詰の横断歩道辺りを通過する際、対面東行信号が赤から青に変つたということは、被告人車が同北詰横断歩道辺りを通過する際、対面南行信号が黄から赤に変つたということになろう。しかしながら、この点は、後で述べるとおり、本件証拠上容易に認めることができない。被告人車の走行速度、後記認定の本件交差点と京町堀交差点間の距離および両交差点の各南行信号機の関連性ならびに途中減速停車の事実が認められないことより考えると、被告人車が本件交差点北詰の横断歩道辺りを進行中、対面南行信号が黄から赤に変るというためには、被告人車が京町堀交差点を対面信号がすでに赤色を表示しているときにこれを無視して進入したのでなければならないが、右赤進入という事実は本件証拠上認めることはできない。

四、被告人の司法警察員に対する昭和四三年一二月二一日付の供述調書は、被告人車が本件交差点の手前約八〇メートルに来たとき、対面信号が黄に変り、本件交差点進入時には間もなく赤に変わるころではないかと思うというのであるが、以下に述べるところから、右調書をそのまま採用することには問題がある。

(一)  まずはじめに、本件交差点とその一つ北側の京町堀交差点における各南行信号機の表示上の関連について検討しておく。

右両交差点を結ぶ南北道路は、通称大阪浪速筋と呼ばれる加島天下茶屋線であつて、本件事故当時、同線の右両交差点を含む計一四ケ所の各交差点に設置された信号機にはいわゆる自動感応系統式信号機が使用されていた。この自動感応式信号機というのは、路面に車両の通過台数を読み取る装置があり、制御機において、その通過台数に応じて信号の周期(AからFまでの六段階がある)を自動的に選択して各信号機に表示させ、これによつて交通の円滑をはかろうとするものであるが、本件事故前日の八月七日午前一一時三〇分から翌八日午前七時までの間は、最も車の少いA周期(七二秒)が選択表示されていたこと、そして、本件交差点と京町堀交差点の各南行信号機による表示上の時間的関連は、別紙信号周期表に記載のとおりになることは、前記証人成相久夫の供述記載および同人の検察官に対する昭和四五年一月二九日付供述調書により認められるところである。

ちなみに、右両交差点間の距離について考えると、信号が問題となる場合の交差点の範囲は、交差点の直近に横断歩道がある場合には、その横断歩道の外側までの部分を含むとされる(道路交通法施行令二条)。本件の場合、京町堀交差点進入地点から本件交差点進入地点までの距離を考えると、それは京町堀交差点北詰横断歩道の北側線から本件交差点北詰横断歩道の北側線までの距離ということになる。ところで、京町堀交差点の東西車両道路の南側線より本件交差点の東西車両道路の北側線までは約二五九メートル、そして、京町堀交差点の北詰横断歩道北側線より同南詰横断歩道北側線までは約28.1メートルであることは、司法警察員作成の交通事故発生時における現場交差点の交通信号機の信号表示についてと題する捜査複命書添付の現場見取図(謄本)および検察官作成の電話要旨書(謄本)により認められるところであり、これと、別紙図面記載の道路状況等からすると、両交差点間の右距離を約二八〇メートルないし二九〇メートルと考えてまず間違いないであろう。

(二)  次に、被告人車の走行速度を検討すると、被告人の供述によれば、京町堀交差点進入以後の速度は毎時約四〇キロメートルというのである。しかし、司法警察員作成の昭和四三年八月一五日付および同年一一月二八日付各実況見分調書によると、本件事故当時、現場には被告人車の急制動によるタイヤスリップ痕が衝突地点までの間に約4.3メートル残つていたこと、すなわち衝突地点の手前約4.3メートルの地点から制動効果がでていること、そして、被告人が森田車を発見して急制動の措置をとつたのが、右衝突地点から約一四メートル手前であつたことがそれぞれ認められるところである。してみると、約9.7メートルが空走距離であつたということになり、通常の空走時間は約0.75秒とされることから、被告人車の衝突直前の速度を逆算すると、時速約五〇キロメートルということになろう。従つて、被告人車は、京町堀交差点進入以後本件交差点に至るまで、ほぼ時速四〇キロメートルないし五〇キロメートルで走行していたものと考えてよい。

被告人の昭和四五年一月二〇日付検察官調書によると、被告人車の速度が時速約三〇キロメートルであつた旨の記載があるが、被告人車の走行した加島天下茶屋線は、別紙図面のとおり、道路幅員が広く、かつ歩車道の区別が明確であるうえ、司法警察員作成の昭和四三年八月一五日付実況見分調書によると、当時車の通行がほとんどなく、前方の見通しが良い直線道路であるというのであるから、乗客の森行輝子から余り速度を出さないように依頼された事実(同人の当公判廷における供述および前記供述調書)があつたとしても、時速約三〇キロメートル走行というのは採用することができない。

(三)  右(一)および(二)の事実を前提にすると、被告人車が京町堀交差点に進入してから、本件交差点に進入するまでに要する時間は、約二〇秒か二一秒ないし二五、六秒ということになろう。

被告人の司法警察員および検察官に対する各供述調書および当公判廷における供述によると、本供述調書を除いたいずれもが、被告人車が京町堀交差点を通過後、本件交差点に至る途中で、本件交差点の対面信号の赤を見たので、減速または停車したというのである。しかしながら、それら供述調書または供述は、京町堀交差点通過時には、同交差点の対面信号が青点滅ないし黄であつたというものである。しかるに、別表信号周期表によると、京町堀交差点の南行信号機が青表示を終つた時点(青から青点滅への変り目)で、本件交差点の南行信号機が青表示を始める(赤から青への変り目)。これが系統式信号といわれる由縁であるが、以後本件交差点の南行信号機は、二八秒間青の状態を続けるのであるから、時速約四、五〇キロメートルで京町堀交差点を対面青点滅信号ないし黄信号で通過した後、約二八〇メートルないし二九〇メートル離れた本件交差点に至る途中で、本件交差点の対面南行信号機が赤を表示しているのを見るということは考えられない。そうすると、右供述調書および供述のように、途中減速または停車したという事実は疑わしいといわねばならない。

途中停車の事実は、被告人が当公判廷においてはじめて供述したのであるが、それは、本件交差点の対面赤信号を見たことから、そのまま突走つても仕方がないので、両交差点間の横断歩道(司法警察員作成の昭和四三年一一月二八日付実況見分調書によると、右横断歩道は、本件交差点北詰にある横断歩道から約八〇メートル北方に存在する)辺りで、グリーンベルトに自車を寄せて停車したというものである。およそ、自動車運転者は、自車進路前方の交差点の対面信号が赤を表示しているのを認めると、その交差点の手前まで行つて停車するのが普通であり、その交差点に至らない八〇メートルも手前でわざわざ停車して青信号を待つなどというのは、不自然そのものであり、到底理解できるものではない。これをまた、第八回公判における供述のように、死亡した乗客高橋敏が酒に酔つていながら、座席に浅く腰掛け、しかも足組みしているという不安定な坐り方をしていた(この点は、森行輝子の前記証言や供述調書に明らかである。)ので、同人に注意を与えるために停車したものであるとしても、右のような状態がそれまでの走行中続いていたものであるから、右時点で注意するため停車するということもやはり不自然な行為といわざるをえない。そして、このような途中停車および乗客への注意の各事実がなかつたことは、右森行輝子が当公判廷において明確に証言しているところであり、途中減速や加速がなかつたことは、同人の検察官に対する供述調書により認められるところである。

(四)  そうすると、被告人車は、時速約四、五〇キロメートルで京町堀交差点を通過し、途中減速や加速も、また停車することもなく、本件交差点に至つたと考えて差支えない。従つて、右に要した時間を、先に述べたとおり、約二〇秒か二一秒ないし二五、六秒と考えてよいことになろう。

これを別表信号周期表にあてはめてみると、被告人車が京町堀交差点を黄信号から赤信号の変り目で進入した場合本件交差点へは青信号と青点滅信号の変り目か青点滅になつて一秒後ないし黄信号になつて一、二秒後に進入することになる。本供述調書によると、京町堀交差点に入る手前で対面信号が黄に変つており、同交差点を通過しない間に赤に変つていると思うというのであるから、前記四(一)において認定した京町堀交差点の長さと被告人車の走行速度から考えて、右の計算よりも一秒位以前、すなわち、本件交差点へは青信号の終りごろないしはせいぜい黄になつて一秒後位に進入することになろう。そうすると、本供述調書のように、途中乗客に注意するために減速したような事実が仮にあつたとしても、右黄信号は九秒間も続くのであるから、本件交差点の手前八〇メートル位の地点で、本件交差点の対面信号が黄に変つた。本件交差点に入るときは間もなく赤に変るころではないかと思うというのは、いささか疑問であろう。まして、前記のとおり右乗客への注意や減速の事実は認められないというのであるから、ますますその信憑性に問題があるといわざるをえない。

右の黄信号になつて一秒後位に本件交差点に進入する可能性があることをとらえて、本件交差点に対面黄信号で進入したと認定することは強引な認定といわざるをえず、これをもつて信号表示に従わなかつたと判断することは困難であろう。

五、以上要するに、被告人車が本件交差点に対面黄信号で進入したとする検察官の主張に沿う、前記森田知康の変更後の供述および被告人の司法警察員に対する昭和四三年一二月二一日付供述調書は、いずれもその信憑性に問題があり、直ちに採用することはできない。そして、本件証拠上、右の外に、検察官の右主張を肯認させうる証拠はない。

そうすると、右事実を前提として、被告人が信号表示に従わなかつたとする過失を認めるわけにはいかず、結局、本件犯罪の証明がないことになるから、刑事訴訟法三三六条により、被告人に対し無罪の言渡をする。 (逢坂芳雄)

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